Thursday, December 22, 2011

Merry Christmas - Part 2! (クリスマスシーズンを楽しもう)

Below I just posted the English version.  Here's the Japanese.  Sorry about any mistakes, formatting, etc.

 クリスマスシーズンを楽しもう

この感覚分かりますか?新しく降り積もる雪の静けさ。家族は温かいココアを飲みながら暖炉の周りで寄り添い、星空の下では、ベルが鳴りイルミネーションの光りが瞬く。カラフルに着飾った買い物客たちは、ハミングしながらスーパーの通路を通り抜ける-この休日の楽しさが全てのシーズンを覆うようです。

ディケンズの「クリスマス・キャロル」の再演、元気な旧世界の歌“ウェンセスラスはよい王様”,そして古き良き時代のイギリスを彷彿させるルネッサンス・フェスティバルの雰囲気の中で,私は自分があたかもビクトリア朝の紳士か中世の宴で乾杯をする人間のような錯覚に陥りそうになります。覚えておいてください、私はアメリカ人です。4000年もの文化的にも均質な文明を持つ中国人とは違います。良くても、私のこの寄せ集め国家には200年ちょっとの歴史しかありません。控え目に言えば、浅い根っこということです。しかしながら、私たちのもっとも初期の聖歌は4世紀にさかのぼることができます。神が私を見つけ私の心を変えてくださったとき、私は、その古くからの伝統の一部になり、アブラハムの子としての自分の本当のルーツを見つけたのです。(ガラテヤ人への手紙 3:7; ローマ人への手紙 9:6-8). 

あなたが、私と一緒にこの暖炉の周りに集まりたいなら、私は喜んで聖歌の風習や、贈り物の意味、またクリスマスツリーの語源などを通して、クリスマスの物語を話してあげましょう。

・クリスマス聖歌の楽しみ 

お気に入りのクリスマスソングは何ですか?ジングルベルとは言わないで!私もいくつか好きな曲があります。たとえば“O come, O come, Emmanuel” (“久しく待ちにし”)、“O Holy Night”(“さやかに星はきらめき”)、  “What Child is This?” (“御使い歌いて”)、 たくさんの曲で、 神がこの世に近付いてきていることが優美な古英語で表現されています。イエスの追随者、親愛なる友人として、私たちは、神への聖歌の中で、喜びと感謝を歌いたい-そして私たちの近所の家から家へとその歌声はあふれるのです。

よく知られた聖歌の中の言葉

“天には栄え み神にあれや
つちにはやすき 人あれや”と
みつかいたちの たたうる歌を
ききてもろびと共によろこび
今ぞうまれし 君をたたえよ

さだめたまいし 救いのときに
かみのみくらを はなれて降(くだ)り
いやしき賤(しず)の 処女(おとめ)にやどり
世びとのなかに 住むべき為に
いまぞ生まれし 君をたたえよ

あさ日のごとく かがやき昇り
みひかりをもて 暗きを照らし
つちよりいでし 人を活かしめ
つきぬいのちを 与うるために
いまぞ生まれし 君をたたえよ

あるいは、“久しく待ちにし”から
久しく待ちにし、 主よ、とく来たりて
御民(みたみ)の縄目(なわめ)を 解き放ちたまえ
主よ、主よ、御民を救わせ給えや
朝(あした)の星なる 主よ、とく来たりて
お暗きこの世に 御光を賜え
主よ、主よ、御民を救わせ給えや
ダビデの裔(すえ)なる 主よ、とく来たりて
平和の花咲く 国を建て給え
主よ、主よ、御民を救わせ給えや
力の君なる 主よ、とく来たりて
輝くみくらに 永久(とわ)に即(つ)き給え
主よ、主よ、御民を救わせ給えや

あなたはEmmanuel(インマヌエル)とは誰でしょうか?そして、なぜ、イスラエルの地にこの平和の王が来たのかと聞くかもしれない。預言者イザヤは、イエスの誕生およそ700年前に神のお告げを聞きました。それは、いつか来たる救い主についてで、このような不思議なものでした。 “おとめが身ごもって、おとこのこを生む。その子はインヌマエルととなえられる。”[“神と共に”という意味] (イザヤ書 7:14) その意味を考えてみると:彼は“神と共に”と名づけられることになっていた – それは とても奥深い行為に対してのシンプルな称号である。 いと高き神、天の王は、 人間の体にわざわざ身を落として住まい– それが 無力な赤ん 坊だったとしても-自分を欺くであろう世界に生まれるであろうと。これが私たちの歌う神である。
イザヤ

彼はこの世のすべてのものをお造りになった。

“この言葉に命があった。そしてこの命は人の光りであった。彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。彼は自分のところに来たのに、自分の民は彼を受け入れなかった。しかし、彼を受け入れたもの、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。”(ヨハネ1:1-18)

旧約聖書は、救い主の再臨についての多くの詳細な予言がいっぱいです。彼は救い主と呼ばれている、なぜならば彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救うものとなるからです。(マタイ1:21)

幾分混乱した信者に対し、イエスは過去に書かれた預言のすべてを、彼の苦しみや死、墓からの復活などで明らかにしました。 “その名によって罪のゆるしを得させる悔い改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民にのべ伝えられる” (ルカ 24:44-47).  “預言者たちもみな、イエスを信じる者はことごとく、その名によって罪のゆるしが受けられると、あかしをしています。” (使徒行伝10:43).

確かにそれは、喜びに歌いさけぶにふさわしいことです!

神:偉大なる贈り主  

意味のある季節が、私たちの哀しみに触れることもあります。正直に言うと歌う気にならない時もあります。クリスマスはまた、とってもさみしい時期でもあるのです。 

私が日本に住んでいたころ、最初の数カ月でひどいホームシックになりました。私の新しい国は、言ってみれば魅力的ではありませんでした。友達も家族もいない、そして日本語でコミュニケーションも取れない、感謝祭は全くの空っぽでした。クリスマスの時期までには、私の心は傷ついてひどく落ち込んでいたのです。不思議なことに、私が懐かしかったものの一つはエッグノッグという卵酒で、日本では手に入らないものでした。

その時、とてもすてきなでき事がありました。私の学校で働いていたアメリカ人の宣教師が、彼女の家のクリスマスパーティに誘ってくれたのです。そこには5‐6人の日本人のクリスチャンがいて、もちろんすぐに私は彼らと“家族”になれたし、そしてキッチンでは、彼女がお手製のエッグノッグをかき混ぜていたのです! 

そのような些細なことで彼の慈悲を示してくれるなんて、神はなんて優しいのでしょう。神が彼の子をこの世界に送ったときに経験した“別れの悲しみ”とはどんなものか、それを私に見せたのだと信じるようになった季節でした。私はイエスがどんなに天に対してホームシックになっただろうと想像します。深いさみしさの中で、彼は再び私に手を差し伸べ、私の頭を持ち上げてくれました。そして私に、他の人たちとの出会いをもたらすことで、新しい希望と彼への信頼を与えてくださったのです。その出来事は、すてきな贈り物すべてが、天の父からもたらされた物であると私に思い出させてくれました。(ヤコブ 1:17)

贈り物をするというのは、日本文化の中で重要な部分です。簡単なものから手の込んだものまで、さまざまな祝いごとの度に贈る習慣があります。私は数えられないくらいの贈り物をあげたりもらったりしました。小さい物から本当にすごい物まで –贈り物に一番大事なものは友情です。英語では、“it’s not the price but the thought that counts.” (大事なのは値段ではなくて、 気持ちだ)といいます。

私のお気に入りの物語の一つは、聖歌“われらはきたりぬ”の中でも歌われているものですが、東からの不思議な賢い男の話です。彼は、世界にやって来る、待望の天の王を探し、そして崇拝するために高価な贈り物を携え、長い旅をしていました。それを考える時、神に差し出すにふさわしい贈り物はありません。 あるいは実際神が私たちから何かもらう必要などないのです。(使徒労使 17:25).私たちの称賛、尊敬そして愛、いかに天の王がそれにふさわしいか考えてみてください。その代わりに、私たちは神がくれた生命や愛情に無関心で、自分本位で彼に心から従おうとしません。これは、私たちの内側を汚すものです。私たちは自分たちで自分たちを侮辱し、私たちの創造主からの罰を受けるのです。

私たちは、他人を感動させようとして贈り物を贈ったり、あるいは贈ることで社会的な義理を果たしたり、あるいはもっとよい物を返してもらおうと画策したりしますが、神は違います。彼は与えます、なぜならば“与える”ことが彼の本質だからです。彼は、私たちが美しくてあいらしいから愛してくれるのではありません。それに私たちがはるかに及ばない存在だから愛すのです。
神戸ルミナリエ

過去にユダヤ人は神から、移動可能な社のような集会用のテントを造るように指図されました(中にさまざまな骨董品がある)。この場所では清めの儀式の後に、ユダヤ人たちは神に言われたとおりの正しいやり方で神を崇拝することができました。その後、彼はもっと永久的な社を造らせました。イスラエルの司祭たちは、枝を振りながら人々を清めました。これらの建物の中では、厚くて丈の長いカーテンかベールが、中の神聖な場所を隔てていました。その中に、一年に一度の贖罪の日、崇高な司祭が入り、神が降りてきて会ったのだといわれています-彼の救い主イエスがこの地に降り立つまでは。

同じように移動可能な神社や寺として、神道には神輿(みこし)というものがあります。裂け目のある竹のカーテンが外部と本殿を隔て、その中には神体が存在します。この中には国民的な清めの日、おはらいの日にしか入れません。その時は、国民の罪が象徴的に木片に記されます。宮司もまた人々を祝福しますが、最近では祓幣(はらいぬさ)と呼ばれる紙片が、植物の代わりに使われます。時には滝での禊ぎ(みそぎ)と呼ばれるお清めの後、参加したもの一同で供え物の神酒(みき)、神饌(しんせん)を下げていただきます。それは直会(なおらい)と呼ばれ、キリスト教でいうところの洗礼や晩餐を連想させます。実際には、神が私たちに払った最大の犠牲は木片ではなく、イエスを木にくぎ付けすることでありました。 (ヨハネ 1:29).
日本にある数えきれないほどの祭りにおいて、それらの核心に下りて行った時、古いものの多くには、聖書に見られるのと同じような物語が存在します。 もちろん、それぞれの文化や習慣があるわけで、時間の経過とともに、神が私たちの先祖とりわけユダヤ人に与えてくれたオリジナルと比べると、変化が生じていますが。

牧師で作家の久保有政は以下のような一つの例を挙げています:日本におけるもっとも古い神社の一つ、長野県の諏訪大社では、御頭祭(おんとうさい)あるいは、みさくち神の祭りと呼ばれる祭りがある。この神社には本殿がない、というのも山そのもの(守屋山)が、神に近い存在であると考えられているからである。緩く解釈すると、守屋山の神は神木である(神聖な木)。毎年4月15日に、一人の男の子が木の柱にくくりつけられ(御柱)、そして宮司が手に刀を持ち近づく。しかし突然、使い主が現れ男の子は解放され、鹿が代わりに生贄(いけにえ)として差し出される。この祭り自体は現在も続いているが、男の子を木にくくりつけ、生きた鹿をお供えするという慣習は明治時代の初期に終わった(紀元1868年)。

聖書の創世記22章にある話だが、その中で神は、アブラハムに彼の子どもイサクをモリヤ山に生贄(いけにえ)に差し出すよう試される場面がある。日本のこの“みさくち”(mi-isaku-chi) という言葉は、いさく-イサクいう名前を 連想させ、つまりここに、ちょうど聖書にあるのと同じような場面をみることができる・・・。イサクの物語は、何千年も後の木の十字架に張り付けられたイエスの死と重なるものです。 Wikipediaでは賢くもこう説明しています: “ご神体は長年にわたり幾重もの布にくるまれ、幾重もの箱に納められ、人の目にさらされることがないため、その存在は忘れされられる可能性がある。” – これを考えると、 クリスマスというのは、神のくださったものをひもとき 感じる良い時間ではないでしょうか?

本殿の前にある割れ目のある竹のつい立てを覚えていますか?なぜ、割れ目が存在するのでしょうか?イエスが私たちの間で仲介者として生活をするために現れ(テモテへの第一の手紙2:15)、そして人間と神との間に和解をもたらすためにその命を十字架の上で終わらせた時、聖書にはこう書かれてあります。“時はもう昼の十二時ごろであったが、太陽は光を失い、全地は暗くなって、三時に及んだ。すると見よ、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。また地震があり、岩が裂け、また墓が開けた” (マタイ 27:51-52, ルカ23:45-46)。 上から下まで割かれたというのは、イエスが人間と神とを隔てる壁を壊したことを示している。イエスのおかげで、神はその高すぎる敷居を下げたのです。

聖書には、神が私たちに言いようもない贈り物として彼のむすこをつかわしたことが書かれているのは間違いありません(コリントへの第2の手紙9:15;ローマ人への手紙5:15-17) 。“罪の支払う報酬は死である。 しかし神の 賜物は、わたしたちの主イエス・キリストにおける、永遠の命である。” (ローマ人への手紙 6:23)。 ふたたび、“神が永遠のいの ちをわたしたちに 賜わり、かつ、そのいのちが御子のうちにあるということである。” (ヨハネの第一の手紙5:11)。私たちがそれにふさわしいから、神はかれの命を 私たちと共有してくれるのでしょうか?それどころか、それは、ただ純粋に私たちに向けられた偉大な愛と暖かい心であり、私たちはその慈悲を受け取るだけなのです。(ガラテヤ人への手紙3:4-7)。この偉大なる愛は、イエスが 私たちの罪を背負い、私たちが負った負債を払うために十字架にかけられたことで示されました。“私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して下さって、私たちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。” (ヨハネの第一の手紙4:9-10).

O Christmas Tree, O Christmas Tree! ♫ 「もみの木」

 私たちの最初の祖先、アダムの家系図を考えてみましょう。エデンの園で、彼は天の王にそむき不純で不正直になり、神から離れました。根がそうであるから、枝葉はもちろんそうなります。木の根に菌が感染して腐り始めれば、残りの部分にも同じ感染や病気や死が運ばれるのは当然なのです。それは神から離れた私たちが自分自身の中に見る苦境なのです。

聖書では、私たちは神の家族の木につがれることができると言っています。(ローマ人への手紙 11:17-18)イエスは朽ちることのない常緑樹の ようなもの です-彼は私たちが彼との関係から離れれば命はない、だがもし私たちが彼につがれれば、我々に彼の命は枯れることなく注がれるだろうと書かれています。(ヨハネによる福音書 15:4-5).

イエスはまたこう言いました。 “私は世の光である。私に従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光りを持つであろう。” (ヨハネ 8:12 使徒労使 26:18とコロサイ人への手紙 1:12-14も参照).

ああ、今日のこの日にあなたも彼を救い主であるとするかもしれない。あなたはすぐに答えた方がいい。彼の素敵な“許し”という贈り物を逃さないために。あなたの造り主にひざまずき、あなたの人生を彼の下に送ります。そうすれば、彼はあなたの利己主義や軽薄な生き方からあなたを解き放ち、あなたの古い自己中心的な態度、敵対心、そのほかの不浄な心を洗い清めてくれるでしょう。自分の心にイエスを神として奉ると、彼は内側から私たちの人生を変えることを請け負ってくれるのです。彼は私たちを自分のこととして受け入れ、決して見捨てたりせず、いつも共にいると約束してくれます。(マタイ28:20).

 Grace and Peace & Merry Christmas,
 




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