Thursday, December 22, 2011

Merry Christmas - Part 2! (クリスマスシーズンを楽しもう)

Below I just posted the English version.  Here's the Japanese.  Sorry about any mistakes, formatting, etc.

 クリスマスシーズンを楽しもう

この感覚分かりますか?新しく降り積もる雪の静けさ。家族は温かいココアを飲みながら暖炉の周りで寄り添い、星空の下では、ベルが鳴りイルミネーションの光りが瞬く。カラフルに着飾った買い物客たちは、ハミングしながらスーパーの通路を通り抜ける-この休日の楽しさが全てのシーズンを覆うようです。

ディケンズの「クリスマス・キャロル」の再演、元気な旧世界の歌“ウェンセスラスはよい王様”,そして古き良き時代のイギリスを彷彿させるルネッサンス・フェスティバルの雰囲気の中で,私は自分があたかもビクトリア朝の紳士か中世の宴で乾杯をする人間のような錯覚に陥りそうになります。覚えておいてください、私はアメリカ人です。4000年もの文化的にも均質な文明を持つ中国人とは違います。良くても、私のこの寄せ集め国家には200年ちょっとの歴史しかありません。控え目に言えば、浅い根っこということです。しかしながら、私たちのもっとも初期の聖歌は4世紀にさかのぼることができます。神が私を見つけ私の心を変えてくださったとき、私は、その古くからの伝統の一部になり、アブラハムの子としての自分の本当のルーツを見つけたのです。(ガラテヤ人への手紙 3:7; ローマ人への手紙 9:6-8). 

あなたが、私と一緒にこの暖炉の周りに集まりたいなら、私は喜んで聖歌の風習や、贈り物の意味、またクリスマスツリーの語源などを通して、クリスマスの物語を話してあげましょう。

・クリスマス聖歌の楽しみ 

お気に入りのクリスマスソングは何ですか?ジングルベルとは言わないで!私もいくつか好きな曲があります。たとえば“O come, O come, Emmanuel” (“久しく待ちにし”)、“O Holy Night”(“さやかに星はきらめき”)、  “What Child is This?” (“御使い歌いて”)、 たくさんの曲で、 神がこの世に近付いてきていることが優美な古英語で表現されています。イエスの追随者、親愛なる友人として、私たちは、神への聖歌の中で、喜びと感謝を歌いたい-そして私たちの近所の家から家へとその歌声はあふれるのです。

よく知られた聖歌の中の言葉

“天には栄え み神にあれや
つちにはやすき 人あれや”と
みつかいたちの たたうる歌を
ききてもろびと共によろこび
今ぞうまれし 君をたたえよ

さだめたまいし 救いのときに
かみのみくらを はなれて降(くだ)り
いやしき賤(しず)の 処女(おとめ)にやどり
世びとのなかに 住むべき為に
いまぞ生まれし 君をたたえよ

あさ日のごとく かがやき昇り
みひかりをもて 暗きを照らし
つちよりいでし 人を活かしめ
つきぬいのちを 与うるために
いまぞ生まれし 君をたたえよ

あるいは、“久しく待ちにし”から
久しく待ちにし、 主よ、とく来たりて
御民(みたみ)の縄目(なわめ)を 解き放ちたまえ
主よ、主よ、御民を救わせ給えや
朝(あした)の星なる 主よ、とく来たりて
お暗きこの世に 御光を賜え
主よ、主よ、御民を救わせ給えや
ダビデの裔(すえ)なる 主よ、とく来たりて
平和の花咲く 国を建て給え
主よ、主よ、御民を救わせ給えや
力の君なる 主よ、とく来たりて
輝くみくらに 永久(とわ)に即(つ)き給え
主よ、主よ、御民を救わせ給えや

あなたはEmmanuel(インマヌエル)とは誰でしょうか?そして、なぜ、イスラエルの地にこの平和の王が来たのかと聞くかもしれない。預言者イザヤは、イエスの誕生およそ700年前に神のお告げを聞きました。それは、いつか来たる救い主についてで、このような不思議なものでした。 “おとめが身ごもって、おとこのこを生む。その子はインヌマエルととなえられる。”[“神と共に”という意味] (イザヤ書 7:14) その意味を考えてみると:彼は“神と共に”と名づけられることになっていた – それは とても奥深い行為に対してのシンプルな称号である。 いと高き神、天の王は、 人間の体にわざわざ身を落として住まい– それが 無力な赤ん 坊だったとしても-自分を欺くであろう世界に生まれるであろうと。これが私たちの歌う神である。
イザヤ

彼はこの世のすべてのものをお造りになった。

“この言葉に命があった。そしてこの命は人の光りであった。彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。彼は自分のところに来たのに、自分の民は彼を受け入れなかった。しかし、彼を受け入れたもの、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。”(ヨハネ1:1-18)

旧約聖書は、救い主の再臨についての多くの詳細な予言がいっぱいです。彼は救い主と呼ばれている、なぜならば彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救うものとなるからです。(マタイ1:21)

幾分混乱した信者に対し、イエスは過去に書かれた預言のすべてを、彼の苦しみや死、墓からの復活などで明らかにしました。 “その名によって罪のゆるしを得させる悔い改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民にのべ伝えられる” (ルカ 24:44-47).  “預言者たちもみな、イエスを信じる者はことごとく、その名によって罪のゆるしが受けられると、あかしをしています。” (使徒行伝10:43).

確かにそれは、喜びに歌いさけぶにふさわしいことです!

神:偉大なる贈り主  

意味のある季節が、私たちの哀しみに触れることもあります。正直に言うと歌う気にならない時もあります。クリスマスはまた、とってもさみしい時期でもあるのです。 

私が日本に住んでいたころ、最初の数カ月でひどいホームシックになりました。私の新しい国は、言ってみれば魅力的ではありませんでした。友達も家族もいない、そして日本語でコミュニケーションも取れない、感謝祭は全くの空っぽでした。クリスマスの時期までには、私の心は傷ついてひどく落ち込んでいたのです。不思議なことに、私が懐かしかったものの一つはエッグノッグという卵酒で、日本では手に入らないものでした。

その時、とてもすてきなでき事がありました。私の学校で働いていたアメリカ人の宣教師が、彼女の家のクリスマスパーティに誘ってくれたのです。そこには5‐6人の日本人のクリスチャンがいて、もちろんすぐに私は彼らと“家族”になれたし、そしてキッチンでは、彼女がお手製のエッグノッグをかき混ぜていたのです! 

そのような些細なことで彼の慈悲を示してくれるなんて、神はなんて優しいのでしょう。神が彼の子をこの世界に送ったときに経験した“別れの悲しみ”とはどんなものか、それを私に見せたのだと信じるようになった季節でした。私はイエスがどんなに天に対してホームシックになっただろうと想像します。深いさみしさの中で、彼は再び私に手を差し伸べ、私の頭を持ち上げてくれました。そして私に、他の人たちとの出会いをもたらすことで、新しい希望と彼への信頼を与えてくださったのです。その出来事は、すてきな贈り物すべてが、天の父からもたらされた物であると私に思い出させてくれました。(ヤコブ 1:17)

贈り物をするというのは、日本文化の中で重要な部分です。簡単なものから手の込んだものまで、さまざまな祝いごとの度に贈る習慣があります。私は数えられないくらいの贈り物をあげたりもらったりしました。小さい物から本当にすごい物まで –贈り物に一番大事なものは友情です。英語では、“it’s not the price but the thought that counts.” (大事なのは値段ではなくて、 気持ちだ)といいます。

私のお気に入りの物語の一つは、聖歌“われらはきたりぬ”の中でも歌われているものですが、東からの不思議な賢い男の話です。彼は、世界にやって来る、待望の天の王を探し、そして崇拝するために高価な贈り物を携え、長い旅をしていました。それを考える時、神に差し出すにふさわしい贈り物はありません。 あるいは実際神が私たちから何かもらう必要などないのです。(使徒労使 17:25).私たちの称賛、尊敬そして愛、いかに天の王がそれにふさわしいか考えてみてください。その代わりに、私たちは神がくれた生命や愛情に無関心で、自分本位で彼に心から従おうとしません。これは、私たちの内側を汚すものです。私たちは自分たちで自分たちを侮辱し、私たちの創造主からの罰を受けるのです。

私たちは、他人を感動させようとして贈り物を贈ったり、あるいは贈ることで社会的な義理を果たしたり、あるいはもっとよい物を返してもらおうと画策したりしますが、神は違います。彼は与えます、なぜならば“与える”ことが彼の本質だからです。彼は、私たちが美しくてあいらしいから愛してくれるのではありません。それに私たちがはるかに及ばない存在だから愛すのです。
神戸ルミナリエ

過去にユダヤ人は神から、移動可能な社のような集会用のテントを造るように指図されました(中にさまざまな骨董品がある)。この場所では清めの儀式の後に、ユダヤ人たちは神に言われたとおりの正しいやり方で神を崇拝することができました。その後、彼はもっと永久的な社を造らせました。イスラエルの司祭たちは、枝を振りながら人々を清めました。これらの建物の中では、厚くて丈の長いカーテンかベールが、中の神聖な場所を隔てていました。その中に、一年に一度の贖罪の日、崇高な司祭が入り、神が降りてきて会ったのだといわれています-彼の救い主イエスがこの地に降り立つまでは。

同じように移動可能な神社や寺として、神道には神輿(みこし)というものがあります。裂け目のある竹のカーテンが外部と本殿を隔て、その中には神体が存在します。この中には国民的な清めの日、おはらいの日にしか入れません。その時は、国民の罪が象徴的に木片に記されます。宮司もまた人々を祝福しますが、最近では祓幣(はらいぬさ)と呼ばれる紙片が、植物の代わりに使われます。時には滝での禊ぎ(みそぎ)と呼ばれるお清めの後、参加したもの一同で供え物の神酒(みき)、神饌(しんせん)を下げていただきます。それは直会(なおらい)と呼ばれ、キリスト教でいうところの洗礼や晩餐を連想させます。実際には、神が私たちに払った最大の犠牲は木片ではなく、イエスを木にくぎ付けすることでありました。 (ヨハネ 1:29).
日本にある数えきれないほどの祭りにおいて、それらの核心に下りて行った時、古いものの多くには、聖書に見られるのと同じような物語が存在します。 もちろん、それぞれの文化や習慣があるわけで、時間の経過とともに、神が私たちの先祖とりわけユダヤ人に与えてくれたオリジナルと比べると、変化が生じていますが。

牧師で作家の久保有政は以下のような一つの例を挙げています:日本におけるもっとも古い神社の一つ、長野県の諏訪大社では、御頭祭(おんとうさい)あるいは、みさくち神の祭りと呼ばれる祭りがある。この神社には本殿がない、というのも山そのもの(守屋山)が、神に近い存在であると考えられているからである。緩く解釈すると、守屋山の神は神木である(神聖な木)。毎年4月15日に、一人の男の子が木の柱にくくりつけられ(御柱)、そして宮司が手に刀を持ち近づく。しかし突然、使い主が現れ男の子は解放され、鹿が代わりに生贄(いけにえ)として差し出される。この祭り自体は現在も続いているが、男の子を木にくくりつけ、生きた鹿をお供えするという慣習は明治時代の初期に終わった(紀元1868年)。

聖書の創世記22章にある話だが、その中で神は、アブラハムに彼の子どもイサクをモリヤ山に生贄(いけにえ)に差し出すよう試される場面がある。日本のこの“みさくち”(mi-isaku-chi) という言葉は、いさく-イサクいう名前を 連想させ、つまりここに、ちょうど聖書にあるのと同じような場面をみることができる・・・。イサクの物語は、何千年も後の木の十字架に張り付けられたイエスの死と重なるものです。 Wikipediaでは賢くもこう説明しています: “ご神体は長年にわたり幾重もの布にくるまれ、幾重もの箱に納められ、人の目にさらされることがないため、その存在は忘れされられる可能性がある。” – これを考えると、 クリスマスというのは、神のくださったものをひもとき 感じる良い時間ではないでしょうか?

本殿の前にある割れ目のある竹のつい立てを覚えていますか?なぜ、割れ目が存在するのでしょうか?イエスが私たちの間で仲介者として生活をするために現れ(テモテへの第一の手紙2:15)、そして人間と神との間に和解をもたらすためにその命を十字架の上で終わらせた時、聖書にはこう書かれてあります。“時はもう昼の十二時ごろであったが、太陽は光を失い、全地は暗くなって、三時に及んだ。すると見よ、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。また地震があり、岩が裂け、また墓が開けた” (マタイ 27:51-52, ルカ23:45-46)。 上から下まで割かれたというのは、イエスが人間と神とを隔てる壁を壊したことを示している。イエスのおかげで、神はその高すぎる敷居を下げたのです。

聖書には、神が私たちに言いようもない贈り物として彼のむすこをつかわしたことが書かれているのは間違いありません(コリントへの第2の手紙9:15;ローマ人への手紙5:15-17) 。“罪の支払う報酬は死である。 しかし神の 賜物は、わたしたちの主イエス・キリストにおける、永遠の命である。” (ローマ人への手紙 6:23)。 ふたたび、“神が永遠のいの ちをわたしたちに 賜わり、かつ、そのいのちが御子のうちにあるということである。” (ヨハネの第一の手紙5:11)。私たちがそれにふさわしいから、神はかれの命を 私たちと共有してくれるのでしょうか?それどころか、それは、ただ純粋に私たちに向けられた偉大な愛と暖かい心であり、私たちはその慈悲を受け取るだけなのです。(ガラテヤ人への手紙3:4-7)。この偉大なる愛は、イエスが 私たちの罪を背負い、私たちが負った負債を払うために十字架にかけられたことで示されました。“私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して下さって、私たちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。” (ヨハネの第一の手紙4:9-10).

O Christmas Tree, O Christmas Tree! ♫ 「もみの木」

 私たちの最初の祖先、アダムの家系図を考えてみましょう。エデンの園で、彼は天の王にそむき不純で不正直になり、神から離れました。根がそうであるから、枝葉はもちろんそうなります。木の根に菌が感染して腐り始めれば、残りの部分にも同じ感染や病気や死が運ばれるのは当然なのです。それは神から離れた私たちが自分自身の中に見る苦境なのです。

聖書では、私たちは神の家族の木につがれることができると言っています。(ローマ人への手紙 11:17-18)イエスは朽ちることのない常緑樹の ようなもの です-彼は私たちが彼との関係から離れれば命はない、だがもし私たちが彼につがれれば、我々に彼の命は枯れることなく注がれるだろうと書かれています。(ヨハネによる福音書 15:4-5).

イエスはまたこう言いました。 “私は世の光である。私に従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光りを持つであろう。” (ヨハネ 8:12 使徒労使 26:18とコロサイ人への手紙 1:12-14も参照).

ああ、今日のこの日にあなたも彼を救い主であるとするかもしれない。あなたはすぐに答えた方がいい。彼の素敵な“許し”という贈り物を逃さないために。あなたの造り主にひざまずき、あなたの人生を彼の下に送ります。そうすれば、彼はあなたの利己主義や軽薄な生き方からあなたを解き放ち、あなたの古い自己中心的な態度、敵対心、そのほかの不浄な心を洗い清めてくれるでしょう。自分の心にイエスを神として奉ると、彼は内側から私たちの人生を変えることを請け負ってくれるのです。彼は私たちを自分のこととして受け入れ、決して見捨てたりせず、いつも共にいると約束してくれます。(マタイ28:20).

 Grace and Peace & Merry Christmas,
 




Sunrise Houston Japanese Network
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Merry Christmas! (and an essay entitled "The Joy of the Christmas Season")

It's been some time since I wrote papers for English and History classes in college.  I kinda miss it.  After all, I was an English/History major. :) And I enjoyed writing the Thanksgiving piece last month (did you enjoy reading it?).  So I thought I'd do one for Christmas, and ask my friend to translate it again - ha.

In a way, it's a little ironic since it was the Puritans/Pilgrims (and Indians) who gave us Thanksgiving, but they also banned Christmas.  It took a while for it to really make a comeback, connecting medieval times to Victorian.  Anyway, as always, the formatting is hard to figure out, or even to make it a separate file to link to, so despite it's length, I think I'll just post both versions in full.  English version first...



 Can you feel it?  The hush of freshly fallen snow; families snuggling around the fireplace with hot cocoa; the ringing of bells and twinkling of lights under the winter sky; colorful shoppers humming to themselves down the supermarket aisles.  The holiday spirit seems to blanket the whole season.

Between reenactments of Dickens’ A Christmas Carol, lusty Old World songs like “Good King Wenceslas”, and the reeling Merry Old England atmosphere of the Renaissance Festival, I almost feel like I was a Victorian gentleman or medieval wassailer.  Remember, I’m American; unlike the Chinese with their 4,000 years of culturally homogenous civilization, I have, at best, some 200 years of history to my hodgepodge national identity.  Shallow roots, to say the least.  However, our earliest Christmas carols go back to the fourth century.  When God found me and changed my heart, I became part of that age-old tradition and indeed found my roots as a child of Abraham (Galatians 3:7; Romans 9:6-8).

If you’d like to gather around this fireside with me, I’ll gladly tell of the significance of the Christmas story through the customs of carols, gift-giving, and the “original” Christmas tree.

The Joy of Caroling


What’s your favorite Christmas song?  And don’t say “Jingle Bells”!

I must say I have several favorites, such as “O come, O come, Emmanuel”, “O Holy Night”, “What Child is This?”, Bach’s “Jesu, Joy of Man’s Desire”, and many more expressing in an exquisitely older style of English the story of God’s coming near to earth.  As followers of Jesus, our risen Savior and dearest friend, we love to sing out our joy and gratitude in praises to Him – and in overflow to go door-to-door around our neighborhood.

In the words of one well-known carol:

Hark! the herald angels sing
Glory to the new-born King!
Peace on earth and mercy mild,
God and sinners reconciled!
Joyful, all ye nations, rise,
Join the triumph of the skies;
[…]
Mild he lays his glory by,
Born that man no more may die,
Born to raise the sons of earth,
Born to give them second birth.
Risen with healing in his wings,
Light and life to all he brings,
Hail, the Sun of Righteousness!
Hail, the heaven-born Prince of Peace!


Or from “O come, O come, Emmanuel”:

O come, Desire of nations, bind
In one the hearts of all mankind;
Bid Thou our sad divisions cease,
And be Thyself our King of Peace.

Rejoice! Rejoice!
Emmanuel shall come to thee, O Israel.


You might be asking who is Emmanuel, and why is this King of Peace coming to Israel?  The prophet Isaiah, writing nearly seven hundred years before the birth of Jesus, was inspired by God with such wondrous glimpses into the future about the coming Savior: “The virgin will be with child and will give birth to a son, and will call Him Emmanuel [meaning ‘God with us’]” (Isaiah 7:14). 
Isaiah writing his prophecies
Consider the implications: He was to be named “God with us” - a simple title for an act so profound.  That the Most High God, Heaven’s King, would condescend to inhabit a human body – even that of a helpless baby – and be born into this sin-sick world that He knew would turn its back on Him.  This is the God we sing about.

He made everything in the universe.  “In Him was life, and that life was the light of all mankind […] He was in the world, and though the world was made through him, the world did not recognize him. He came to that which was his own, but his own did not receive him. Yet to all who did receive him, to those who believed in his name, he gave the right to become children of God” (See John 1:1-18). 

The Old Testament is full of many detailed prophecies about the coming of the Savior.  He is called the Savior because he will save His people from their sins (Matthew 1:21).  Explaining to His somewhat confused followers, Jesus revealed how everything written about Him by the prophets in the past was fulfilled by his suffering, dying, and resurrection from the grave, and that from now on “repentance and forgiveness of sins should be proclaimed in His name to all nations” (Luke 24:44-47).  “About Him all the prophets bear witness that everyone who believes in Him receives forgiveness of sins through His name” (Acts 10:43).

Surely that is something worth singing and shouting for joy!

God: The Great Gift-Giver

Meaningful seasons can touch the melancholy in all of us, and, to tell the truth, there are times when I don’t feel like singing.  Christmas can also be a very lonely time. 

When I was living in Japan, I was struck with homesickness in the first few months.  My new country was, shall we say, uninviting.  Without friends or family or the ability to communicate in Japanese, Thanksgiving was a hollow affair.  By Christmas time, my heart was aching so badly I was downright depressed.  Oddly, one of the things I missed having was eggnog, which isn’t available there. 

Then, something wonderful happened.  An American missionary I had met who used to work at my school invited me to a Christmas party at her house.  She had five or six Japanese Christian friends over as well who, of course, became instant family to me, and – get this – there in the kitchen she was mixing ingredients for homemade eggnog! 

How kind of God to show His comfort in such little things.  It was during that season that I believe He showed me something of the ‘parting sorrow’ that He experienced in sending His Son down to earth.  I imagine Jesus too feeling homesick for heaven.  In the depth of my loneliness, He reached out to me yet again and lifted my head, giving me renewed hope and trust in Him while bringing me into community with others.  It reminds me that indeed every good gift is from my Father in Heaven (James 1:17).

Gift-giving is an important part of Japanese culture.  They can be simple or elaborate, and there are all sorts of customs to keep in mind for various holiday occasions.  I gave and received tons of gifts, ranging from the forgettable to the truly awesome – the best being the gift of friendship.  We say in English, “it’s not the price but the thought that counts.”

One of my favorite stories, which we sing in the Christmas carol “We Three Kings”, is of the mysterious Wise Men from the East who journeyed far with costly gifts to find and worship the long-awaited King of Heaven who had come into the world. If we think about it, there is no suitable gift that we could give to God, or indeed that He would need from us (Acts 17:25).  Consider how the High King of Heaven is worthy of all of our praise, honor, and love; but instead, we have been ignorant of His gifts of life and love to us, and selfishly disobedient to Him in our pride.  This makes us unclean inside.  We have earned shame for ourselves and punishment from our Maker. 

Whereas men might give material gifts to impress others, or to meet social obligations, or to incur a debt so they might receive a better gift back, God is different.  He gives because it is His nature to give.  He loves, not because men are so lovely or lovable – far from it.

In the past, the Jewish people were instructed by God to construct a tent of meeting with a sort of portable shrine (with various artifacts inside).  At this place, after ritual purification, they could offer worship and sacrifice according the acceptable proper way that God laid out.  Later, He had them build a more permanent temple.  The Israelite priests also blessed the people while waving a branch.  A thick and very tall curtain or veil in these structures separated the inner sanctuary or holy place where once a year on the national Day of Atonement the high priest could enter and God would come down – until His promised Savior would come.

The same portable shrines and temple demarcations are found in Shinto with the mikoshi and split bamboo curtain separating the inner sanctuary or honden, where the spirit’s material object or shintai resides.  This area can only be entered on the day of national purification Oharai, when the sins of the nation are symbolically placed on a piece of wood.  The priests also bless the people, though these days they use a paper wand or harainusa instead of a sakaki plant.  Occasionally, after a kind of purification by water or misogi at a waterfall, the adherents partake in a ceremonial drink or naorai with the deity – in some ways reminiscent of baptism and the Lord’s Supper).  In reality, the true sacrifice that God provided for us was not a piece of wood, but was nailed to the wood: Jesus (John 1:29).
Luminarie in Kobe
Of the countless festivals in Japan, when you get down to the core, many of the older ones are telling part of the same basic story found in the Bible.  Of course, as is the case with customs in other cultures, over time some distortions have crept into the original story that God had given our ancestors, and especially to the Jewish people. 

Pastor and author Arimasa Kubo relates one example: at one of the oldest shrines in Japan, Suwa-Taisha in Nagano prefecture, there is a festival called Ontohsai or to the Misakuchi-god.  This shrine has no honden because the mountain itself is considered to be a closer connection to Moriya no kami, or loosely translated, the deity of Mount Moriya, and the sacred tree or shinboku (more on that later).  Every year on April 15th, a boy was tied to a wooden pillar (oniye-bashira) and a Shinto priest approached, knife in hand.  But suddenly a messenger arrived and the boy was released, with deer then offered instead as animal sacrifices.  Though the festival continues today, the parts about tying up the boy and sacrificing live deer were discontinued at the beginning of the Meiji era (A.D. 1868).

This is the outline of the original story found in the Bible in Genesis 22, where God tests Abraham by telling him to sacrifice his own son Isaac on Mount Moriah.  It is possible that Misakuchi could refer to Isaac by name – or Isaku. The story of Isaac was meant to point thousands of years into the future to the death of Jesus on a wooden cross.  As Wikipedia sagely explains: “Because over the years the shintai is wrapped in more and more layers of precious cloth and stored in more and more boxes without being ever inspected, its exact identity may end up being forgotten.” – isn’t this Christmas the perfect time to unwrap and come to discovery the gift of God?

Do you remember the curtain of split bamboo?  When Jesus came to live among us as a go-between (1 Timothy 2:15) and give up His life on the cross to bring reconciliation between man and God, the Bible says, “It was about noon and there was darkness over the whole land until three o’clock, while the sun’s light failed.  And behold, at that moment the curtain of the temple was torn in two, from top to bottom. The earth shook, the rocks split, and the tombs broke open” (Matthew 27:51-52, Luke 23:45-46).  Being torn or split from top to bottom indicates that Jesus had actually broken the barrier that separated man from God.  In Jesus, God lowered “the threshold” that was too high for us.

No wonder the Bible talks about the coming of His Son as an unspeakable gift to us (2 Corinthians 9:15; see Romans 5:15-17)!  “For the wages of sin is death, but the free gift of God is eternal life in Christ Jesus our Lord” (Romans 6:23).  Again, “God has given us eternal life, and this life is in his Son” (1 John 5:11).  Does God offer to share His life with us because we deserve it?  On the contrary, it is only due to His great love and kindness toward us that we receive His mercy and grace (see Titus 3:4-7).  This great love was shown on the cross where Jesus took on our sin and paid the debt we owed.  “In this is love, not that we have loved God but that he loved us and sent his Son to be the atoning sacrifice for our sins” (1 John 4:9-10).

O Christmas Tree, O Christmas Tree!

Let’s consider the picture of our family tree with Adam as our first ancestor.  In the Garden of Eden, he turned his back on Heaven’s King and so became impure, corrupt, separated.  As the root, so the tree.  When an infection begins to rot the roots of any tree, the rest of it carries the same infection and sickness and death is certain.  That’s the predicament we all find ourselves in, estranged from God.

The Bible tells us that we can be grafted like tamagushi branches into the Tree of God’s Family (Romans 11:17-18).  Jesus is like the true, enduring evergreen tree or masakaki (真榊) – He warns that apart from relationship with Him we can have no life, but if we are joined to Him then His life will flow through us (John 15:4-5).

He also proclaims, “I am the light of the world. Whoever follows me will never walk in darkness, but will have the light of life” (John 8:12, see Acts 26:18 and Colossians 1:12-14).

Oh, may you make Him your Savior too this day!  Our response is urgent lest we miss His gracious gift of forgiveness.  Bow your knee to your Maker, submit your life to His Kingship, and He will freely pardon you from your selfish and petty way of living and cleanse you from your old live of self-centered attitude, bitter resentment, and all other filthiness.  When we enshrine Jesus as Lord in our heart, He takes it upon Himself to change our lives from the inside out.  He accepts us as His own and promises that He will never abandon us but will be with us always (Matthew 28:20).

Indeed, as the angel proclaimed to Mary, “Fear not, for behold, I bring you good news of great joy that will be for all people!” (Luke 2:10).

Grace and Peace & Merry Christmas,


Sunrise Houston Japanese Network
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Friday, December 2, 2011

♫ C'mon Ring Those Bells... ♪

Hi everyone,

Sorry if I didn't get to see you for a Thanksgiving get-together with friends from International Christian Fellowship or Church in the Center (see pics below; actually there were a lot more people than the bottom picture conveys).

I wanted to let you know about an upcoming Christmas event with my friends at Rice Temple Baptist Church - 6409 Greenbriar, Houston, TX 77030.  Actually, the kids' recital is today at 6PM, but I take it that's a little late notice for y'all.

On Tuesday, December 13th, at 11AM, there will be the annual Christmas Handbell Program/Recital with friends from Japan, China, Korea, America, and other countries represented.  Afterward at 12PM, we'll all have potluck lunch together at Mary's house across the street (don't worry if you can't bring a dish).  It's a great opportunity to meet friends from other countries and practice English.  

I really hope you can make it and we can see you there - or else you have a really good excuse why you can't!  :)

Grace and peace,
Daniel

P.S. Actually, it turns out the SMILE program at South Main Baptist is having their Christmas ESL program at the same time, so if you're already planning on going there instead I guess that qualifies as a valid excuse!

P.P.S. If you're looking for a nice neighborhood to see Christmas lights, you might try Pecan Grove in Richmond, Texas (just south of Sugar Land).  Christmas light winners 2010 in Pecan Grove

ICF at U of H

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